Chief blog塾長ブログ

2024.07.16

地球は回り続けるし、誰しも引退するし

大人の人間関係の中で、管理されて生きていきたいか、自覚を持って行動していきたいかが大きな問題です。

自覚を持って生きていくならば、立場的に他者を管理したとしても隷属させない生き方を選ぶならば、実用だけでなく教養が必要だし、何度も失敗をすることも必要だし、人間関係で傷つくことも必要です。年相応の役割を意識するようになるには、自分のことを見つめるだけでなく、時の流れを俯瞰的に見ていく必要があります。

これは教育業界でも課題となります。

ただ、親として子どもが失敗する姿や、人間関係で傷つく姿を見たいかというと、見たい人はいないでしょう。いつ役に立つか分からない教養よりも、明日に役に立つ実用の方が輝いて見えるでしょう。年相応の役割なんて大きくなれば身につくだろうから、それよりも次の定期考査が気になるでしょう。だから、子どもを管理してでも学力を伸ばして欲しいという親の感情も分かります。ただ、その感情は20年後にどういう結果に出るか。

その一方で、教える側にも責任があります。「生徒の学習管理をしないで、学力を伸ばしたい」という理念で向き合ってきました。学習管理とは、「単語帳を何周やったか」「問題集をどのくらい繰り返したか」ということで、添削や小テストのことではありません。学習管理は「教育工場」のようなもので、そんな管理が「教育」だというのであれば、それは教育学という人間の成長の歴史の否定にもなるんじゃないかな。そんな管理を「売り物」にしているところに教育哲学などありませんよ。

「管理せずに学力を伸ばす」ためには、添削や小テスト、授業の組み立てを考えたりするだけではなく、生徒の名前と顔が一致することを前提とした上で、生徒の変化に気づいたり、いつどんな言葉がけをしたりとか、AIにはできない人間的な付き合いが必要です。「できないこと/分からないことができた」ということは達成感につながるし、その達成感の延長線上に自尊感情も芽生えてくるものです。

「生徒の自覚に任せる」という言葉の裏に、「だからボクちゃんは自分の好きなように授業するから、あとは勝手に勉強してね」という気持ちがあるようであれば、それは「教え手」としては管理しかできない人よりも「下」なのですが、きれいな言葉を使う人も多い、、、かな。

人生は直線ではないし、「成功」が年収や社会的地位とイコールというわけでもないし、必ず誰しも仕事からもこの世からも引退するわけですし。