2024.05.10
と、考える高校生が多いでしょう。というか、「英語を通じて異文化理解を!」だとか、「英語を学ぶことで他者理解を」、「国際人としての共通言語」、「自分の世界が拡がる」と、英語教育をご専門とされているじいさまが好きそうな言葉を「ふむふむ、その通り」と思っている高校生はどこに存在しているの? きっと探せばいるのでしょうが、会ったことがないんですよ。
ここが「英語教育」のサロン化の象徴なんでしょうね。
もちろん、英語が好きでたまらない、勉強が好きでたまらない、英語の偏差値70以上を意識していて、そういう生徒が分かってくれればいいよ、という教え手にとってビジネスもあるのでしょうね。学ぶ側は学習塾チェーンで「いちばん上のクラスに入った」というプライドを誇りにしたい気持ちもよく分かる。
ただね、学びの原点は他者との比較ではなく、「分からないことが分かるようになること」という誰しもが自分の中に存在する部分だ。だから教える側は職業的倫理観を持って、教材研究をしっかりとして、そのサポートをしなければいけない。それが仕事なんです。
話はそれたけど、英語なんて受験で使う道具に過ぎない。でも、受験で使うのだから、勉強しよう。そのために、分かるようになろう。就職後に勉強しようと思うかもしれないけど、もしそんなときがあれば、そのときに勉強しましょう。分かるようになれば、そのことに興味を持つかもしれないし、別のことに関心が出てくるかもしれない。でも、そんなことを考えずに、まずは入試のために必要なのだから勉強しましょう。初デートやお見合いの時におしゃれをしますよね、それと同じです。相手に受け入れてもらえる準備をすることは当然の作法です。
人生の過去を振り返った人のアドバイスは、これから進む人にとってピンとこないことは、年長者なら経験あることです。「アドバイスを素直に」といわれても、そんな素直に受け入れることはできないし、逆に何でも素直に聞く若者がいたら逆に不安になる。
「好き」から始まることが多くある。「好き」とは「できる/分かる」の延長線上に存在する。「受験のための手段として英語の勉強をする」から初めて、その先を考える必要などいまはないんですよ。