2024.09.19
教育について語るとウソっぽく感じます。教育を語る人はウソっぽい人が多いと感じてしまうので、だから自分も教育のことを語ることにためらいを感じます。教育は、具体的に数字に表れないし、具体的な方法があるわけでもないし。わかり合えない人とは、地球が滅亡するまでわかり合えないし、わかり合える人は1時間でも語っていられるし。だから、教育について語ると徒労感や「サロンの住人感」を感じてしまい、さらに遠ざかります。
千葉市で「千葉市こども・若者基本条例」の案が出され、現在、パブリックコメント募集中です。この条例案を読みましたが、これがすばらしい。これを作成した担当者に心から敬意を表するとともに、たまには自分でも教育論をえらそうに書いてみます。この条例案については明日以降に紹介したいですね。
教育の目的は、子どもが「自分の人生を自分で選び、思ったように生きる」ということにつきます。誰かの奴隷になるのではなく、社会や会社の奴隷になるのではなく、「自分の人生を自分で決める」ということです。
その子どもが自分で決めるためには、様々な知識やトレーニングが必要です。知識は学校の授業でその基本を身につけ、トレーニングは人間関係の中で学びます。車の両輪のようなものです。バランスが必要です。
この知識やトレーニングのためには、周囲の大人(学校であれば先生)がその子どもの居場所を作る必要があります。自分がそこに存在していいのだ、そこにいるとホッと出来る、という居場所がなければ、知識を得ることも出来ないし、人間関係も学べません。居場所を作るためには、人間を知らなければならない。だから様々な人生経験や文学が必要です。
「思ったように生きる」といっても、子どもにとってはモデルが必要です。良い意味でのモデルも必要かもしれないけど、時には「反面モデル」も必要かも。世の中は真水ではなく、多少は濁りも必要です。その社会の健全性は、「真水を求めないが、濃度は大切にする」ことじゃないですかね。建前だけいわれても「それは確かに仰るとおり」で終わってしまいます。濁りは必要だけど、濁りすぎは良くない。そこで、その人の教養が出てくるのでしょうね。許せることは許せる、ダメなものはダメ。我が身に起きることと、社会のルールとを切り分けることも大切だけど、これもなかなか難しいケースがあります。というか、難しいだらけじゃないか。
大人でも、居場所がないと厳しくないですか? 生活でも、仕事でも居場所を感じられなかったり、「いずらさ」を感じたら、私は辛いです。教育は、強者の子どものためだけにあるのではなく、社会的・身体的・環境的弱者の子どもにとっても大切なものです。もっといえば、後者のためにこそ時間とお金が使われなければ、地域や国家の基盤が弱くなりますが、あまり目立つものではありません。
くどくなってしまうので、本日はこの程度で。