Chief blog塾長ブログ

2025.01.14

学校の先生という仕事

学校の先生の条件が悪くなり始めて30年です。今年で56歳になる私が教師になった25歳の時がいちばん条件が良かった。当時は土曜日も隔週で授業があったし、生徒のヤンチャ度も高かった。「特業」と呼ばれた土日祝日の部活動手当(教員特殊業務手当)も、500円だった(交通費込みで1日500円) でも妙な締め付けもなく、教員の裁量も高く、退職金は一般の先生で3000万円を超えていた(伝聞)みたいだし、年収も定年近くなるとほぼ1000万円はあった。

その後に「給与のフラット化」という名前で給与が減らされ、退職金も計算式を変えることで抑えられ、さまざまな「研修」が増え、教師の裁量は減ってきた。条件が良くなったのは3,000円くらいにアップした「特業」くらいかな。労働条件が悪化してきていることは誰も否定しないだろう。

それに士気が落ちてきてる。士気が落ちてきている理由を兵卒に求めることはアホなことなのに、そのアホなことをしている匿名の人々がいることがさらに士気を落としている。教員批判をして、「そうだ!しっかりと働こう!」とでも思っているのか。アホな行為に反応する教育関係のエライ人もアホなのだろう。

また、校長の中には現場の士気を下げる人もいる。現場を見ず、県教委からいわれたことをメッセンジャー的に伝えてくる人もいる。そもそも論だが、経済的なリスクを背負わないポジションに高度な経営責任などあるはずがないのに、校長という立場になると高度な権限を持つと勘違いしてしまう人がいることも残念なことだ。

教員として働く環境はあまりいいものではない。給料も高くない、残業代も出ない長時間労働、権力欲の強い管理職。大学で教育学や教科教育、心理学、憲法、教育原理や哲学を学び、教員免許状をとり、ようやく教員になったと思ったら、待っていたのが劣悪な労働環境というのでは本当につらいですよね。

とはいえ、社会のインフラの基本は教育だ。大人が字を読めること、文章を理解できることを「普通」にしているのは教育だ。また、リーダーの原型は小学校の班長だ。クラス長のような立場ではなく、班長や修学旅行時の「部屋長」という2~4名程度の小さい単位のリーダーの経験は、社会でのリーダーの原型になる。集団作りという大切な経験は学校でしかできない。学校でもたいへんなのに、いわんや生徒集めのノルマに追われた塾や予備校で集団作りはできない。

子どもにとっての「居場所」は大切だ。人生は春夏秋冬の順番ではなく、多感な時期に冬を経験する子どもも少なくない。そういう子どもたちにとって自分の教室が居場所であれば、どれだけ救われるか。担任が話を聞くだけでどれだけ気持ちが安定するか。これも、塾や予備校ではできないし、進学実績をメインに考えている学校でもできない。

集団作りや居場所作りのベースに教科教育を考えるのが学校の先生だ。教科が分かったところで、人と人との間を耕せなければ意味がないし、教育を考えることで教科を軽視することは仕事として不十分だ。学校での「雑用」以外に、労働条件としてはブラックの中で、教育と教科の両輪を身につけて、実践していかなければいけない。本当にたいへんな仕事です。

ただどうしても必要な仕事で、みなさんのような優秀な人、具体的にいえば平均よりも「上位」にいる人が就かなければいけない仕事が公立学校の先生という仕事だ。日本という国が持続可能であるためには、みなさんのような人が先生になってほしいと、教員の労働環境の悪化をさせてしまった世代のひとりとして申し訳なさを感じながら、思っています。

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